「御召縮緬ちりめんや」により、斜陽化していた丹後の織物産業が再び活気を取り戻し、享保十五年、時の藩主京極高長はその功績を讃え、「御召縮緬ちりめんや」と紺地に白く染め抜いた暖簾を佐平治に与えました。この時、佐平治はその名を嫡子に譲り、「森田治郎兵衛」と改名したといわれます。現在でも翁の命日である十一月三日ごろには、墓のある常立寺(京丹後市峰山町吉原)で慰霊祭が行われており、丹後ちりめんの始祖として敬われています。また、佐平治が織り出して寺に納めたちりめんが、今も禅定寺(京丹後市峰山町小西)に残されています。佐平治は、禅定寺の観音様に七日間の断食祈願を行って、丹後ちりめん織りに成功したという逸話が伝えられており、この時、初めて織ったちりめんが、寺に納められている織物だと伝えられています。成相寺。変えた観音様で、散らばった観音様の木屑を拾い戻し合わせると元通りになったので、この寺を成合(相)と名付けたというのが、「身代り観音」。「撞かずの鐘」は慶長十三年(一六〇八)銘の梵鐘にまつわる悲話で、鐘の鋳造のため寄付を募ったところ、一軒だけ金を出せない家があり、一度、二度と失敗した後の三度目の鋳造の際、その家の赤ん坊が溶けた銅の中に転落。鐘は見事に鋳上がりましたが、この鐘を撞くと赤ん坊の泣く悲しい声が聞こえるので、鐘を撞くのをやめたといいます。また、本堂下の蓮池にちなんだ「底なし池」の伝説も残されています。鎌倉時代の鉄湯船や、室町時代中期の土地台『丹後国諸庄園郷保惣田数帳』などの国指定重要文化財も所蔵しています。
[参考]
坂本屋瑠璃亭